平松神社の御朱印。その後半です。
心岳寺跡に鎮座する平松神社の御朱印
平松神社の御朱印の続きです。
平松神社は史跡・心岳寺跡地に、
鎮座する神社です。
また心岳寺とは、
島津歳久公の菩提寺です。
島津歳久公とはどんな方だったのでしょう。
島津歳久公とはどんな方。
では島津歳久(としひさ)公とは、
どんな方だったのでしょう。
戦国時代の薩摩の武将で、
敵中突破で有名な島津義弘を含む、
島津4兄弟の一人です。
豊臣秀吉の九州征伐に際して、
長男の島津義久は降伏しましたが、
最後まで抵抗したのが歳久公でした。
薩摩の反骨武将を祀ります。
この地で最後を迎えます。
そこで豊臣秀吉は、
歳久にぬれぎぬの罪をおわせ、
兄・義久に弟・歳久の首を要求します。
義久の追っ手に追われた、
歳久と家臣27名は、
この地に追いつめられます。
そしてこの地で自害します。
家臣達も後を追って果てました。
ここで最後の戦いがあったそうです。
歳久公が自害すると、
義久公の追っても武器を捨て、
地面に伏して泣いたそうです。
追っての者たちも、
歳久公がぬれぎぬと分かっていました。
それだけ島津家の家臣には、
慕われていたのでしょうね。
島津歳久公と家臣の墓地があります。
島津歳久公のお墓に手を合わします。
平松神社の裏には、
島津歳久公と殉死者27名の、
お墓があります。
島津歳久公のお墓です。
当時に思いをはせながら、
そのお墓で手を合わせました。
殉死者27名のお墓もありました。
歳久公が詠まれた、
辞世の句が石に刻まれています。
島津歳久公の辞世の句です。
晴蓑(せいさ)めが玉のありかを人問はば
いざ白雲の末もしられず」
「晴蓑(歳久)の魂の場所を聞かれたら
雲の彼方へ消えたので分からないと答えよ」
という意味で、「私は思い起こすことなく、
天国にいったので私の事を気にするな」
やむなく追っ手を送った兄・義久公に、
当てた辞世の句とも言われています。
島津歳久公のお墓を、
動画に撮ってみました。
心岳寺詣りが行われました。
兄・義久公は、
歳久公の最後の地であるこの地に、
霊を弔うために心岳寺を建立します。
その家臣に慕われた、
薩摩藩唯一の反骨武将の最後の地は、
薩摩の聖地となりました。
それは心岳寺参りとして、
妙円寺詣りとともに、
薩摩の行事として行われました。
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平松神社の御朱印を頂く。
それでは平松神社の、
御朱印を頂くことにします。
実は平松神社は、
宮司さん不在の時期がありましたが、
昨年より島津家の血を引く、
宮司さんが任命されました。
その宮司さんが、
境内の整備を勧めている最中に、
私が訪ねてしまいました。
御朱印を快く受けて頂き、
平松神社と宮司様の名前が入った、
御朱印を書いていただきました。
平松神社で御朱印を頂きました。
平松神社と御朱印を、
動画に撮ってみましたのでどうぞ。
心岳寺と平松神社に参拝しました。
今日は平松神社に参拝して、
御朱印を頂いてきました。
史跡・心岳寺跡にある、
島津歳久公のお墓にもお参りしました。
薩摩の聖地だったこの地で、
しばし戦国武将の島津氏に、
想いをはせる御朱印めぐりでした。
平松神社の紹介記事の後半でした。
↓ 前半の記事はこちらからどうぞ。
現在、心岳寺詣りを、
復活させよういう動きがあります。
今は妙円寺詣りは残っています。
西郷隆盛の蘇生の家です。
月照上人と共に、船から、
錦江湾に身を投げますが蘇生します。
船の上から心岳寺の灯りが見え、
島津歳久公の最後について、
月照上人に語ったといわれています。
平松神社(心岳寺跡)
鹿児島県鹿児島市吉野町10691
駐車場 有り
JR鹿児島中央駅から車で約20分
JR竜ヶ水駅から徒歩約1時間
南国交通バス「平松バス停」から徒歩5分
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